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雑記です。日常のこと、読書、子育て、考えたこと。

3月25日 挨拶をしない人、電車の中で化粧をする人と、それを非難する人

私の職場に挨拶をしない人がいる。こちらから声を掛けても無視される。私としては当然気分が悪い。ただこの人は挨拶をしないということは、すでにわかっていることで、気にしないように努めているのだが、なかなかそれが出来ない。過度に意識してしまうのだ。「この人はなぜ挨拶をしないのだろうか?私のことが嫌いなのだろうか?私も無視しようか?いや、相手がどうあろうと、自分は挨拶をするべきだ」などと色々なことを考えてしまう。私としては、心が乱されてしまうのが嫌なのだ。しかも非があるのは相手のはずなのに、(こちらに非がある可能性も、もちろんある)相手は全く平然としているのが、さらに輪をかけて腹立たしい。またそういった(おそらく)些細な事に、心を惑わされる自分に対してもイライラしてしまうのだ。

そのように挨拶をしない人にどう対処すべきか悩んでいる私だが、ふと「電車の中で化粧をする女性の是非についての議論」というものが思い浮かんだ。よく新聞の投稿欄でも見られるものだが、基本的には「公共の場で化粧をすることはマナー違反だ。はしたないから止めるべきだ」というものと、「別に迷惑かけているわけではないのだから、かまわないだろう」という二つの意見が見られる。私は正直に言って、電車の中で化粧をする女性を見ても、全く不快に思うことはなく、この議論自体はどうでもいいのだが、「電車の中で化粧をする女性」を非難する人たちと、先ほど述べた「挨拶をしない人に腹を立てる自分」が重なり合うように感じる。つまり、考えるべき問題はマナー違反を犯す相手側にあるのではなく、むしろそれを非難するこちら側にあると思えるのだ。これらに共通するのは「自分が他人の行為によって心を乱されている」ということで、自分とは異なった価値観を持った人が許せない、と言い換えることが出来るのではないだろうか。

確かにこの二つの事例において、相手側に非はあるだろう。公共の場においては一定のルールが存在し、それを守られるべきだ。例えば、親から子へ、学校の先生が生徒に道徳教育の観点から指摘することに対しては意義はない。しかし、それがすべての状況に適用できるかは疑問だ。相手が自分と同じ道徳観、あるいは価値観を持つべきだという前提がなければそれは成り立たない。そのように考えると、また違った景色が見えてくる。「挨拶をしない人」はもしかすると、その人ならではの事情があるのかもしれない。コミュニケーションに問題を抱えている人もいるだろう。仕事の効率化のために挨拶をしないことを推奨している会社もあると聞く。電車の中で化粧をすることも、時間を有効に活用しているともいえる。その人にとっては非難されるリスクはあるだろうが、それを踏まえた上でならば、もはやその選択に口出しすることは出来ないだろう。現代は多様化の時代だと言われる。異なった文化で生まれ育った外国人の方々、子供、若者、高齢者、障害者など様々な人々で社会は構成されている。それを一つの価値観で一括りにするのはもはや限界だろう。自分の価値観を相手に押し付けるのではなく、自分と他人とは違うものだとして、距離を置くことも必要なのではないか。「自分とは異なった他人の価値観を認めない」ということは、「他人が自分の価値観を認めないことを認める」といとにほかならない。これは良し悪しの問題ではなく、現代を生き抜く知恵ともいえるのではないか。

「他人の価値観を認める」というと、たいそう難しいことのように思えるが、一言でいえば「他人は自分の思い通りにはいかない」ということを知ることだろう。諦めればいいのかもしれない。そう考えると少し気が楽になった。相手がどうであれ、自分は思うようにすればいい。私はたとえ相手の返事がなくとも挨拶をすることにしよう。