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reading between the line

雑記です。日常のこと、読書、子育て、考えたこと。

3月28日 「拉麺 七星」に行ってきた。

以前から気になっていたラーメン屋「拉麺 七星」に行ってきた。まず「七星」という店名が秀逸だ。三ツ星でもなかなか取れるものではないが、この店はさらに4つも星が上積みされている。おそらく至高のラーメン、究極の一杯が食べられるに違いない。店頭には素朴な手書きのメニューが貼られているだけだが、中に入るとオシャレで意表をつかれた。木目調の落ち着いたカウンター、静かに流れるジャズピアノのBGM。ラーメン鉢も木製のトレイもすべてが上品だ。通常ラーメン店は2種類のタイプに分けられる。気軽に入れる大衆店と、ラーメン通を相手にしたこだわりのラーメン店だ。私はどちらも好きだが、「七星」は完全に後者。元気の良い若い店主が出してくれたラーメンはまず見た目が美しい。薄くスライスされたチャーシューにとろけそうな半熟卵、シナチクと青味が丁寧に盛り付けられ視覚だけで美味しいと判断してしまった。スープをすすると、店の雰囲気にピッタリの上品な味わいだ。まったりとした豚骨醤油で麺にいく前に飲み切ってしまいそうだ。太麺はモチモチしている。店奥に製麺機のようなものが見えた。店内で打った自家製麺だろうか。うどん屋やそば屋では見かけるがラーメン屋では珍しい。こだわりぬいたラーメンを一瞬で完食してしまった。もっと味わうべきだった。店主が一人で切り盛りしているようで、忙しそうだった。ラーメンを作り、運び、下げモノをしなければならない。結構至難の業だ。思わず自分が食べた鉢や、他のお客のものも片づけようという気になったがやめておいた。いい迷惑だろう。しかしこれだけおいしいラーメンならやがて繁盛店になるだろう。店主さんはさらに大忙しだが、頑張ってもらいたい。そう思えるようなラーメンだったし、店主さんの働きぶりだった。美味しかったです。ごちそうさまでした。また行きます。

3月27日 オセロ

6歳の娘とオセロをした。今日は何とか勝利を収めたが、娘も段々強くなってきた。油断すると負けるほどだ。別に私はオセロが強いわけではないが、娘に必勝法を伝授している。オセロは四隅を取ったほうが有利なのは誰でも知っている。だから四隅を取るためにはどうすれば良いのかを考えればいい。それには四隅に隣接するマスを先に相手に取らせなければならない。ということは、その四隅に隣接するマスのさらに「隣」のマスを先に取ったほうがいいだろう。これは四隅に限らず、端の列にも同じことが言える。外側の四辺の列も取ったほうが有利だろうから、その内側の列は相手に取らせたほうがいい。すなわち自分は端から3列目を先に取るべきだ。という、素人考えの必勝法を伝授したら、オセロが非常につまらないものになった。順番に規則的に打っていくためキレイに石が正方形に埋まっていく。なんだかゲームというか、パズルのようだ。

オセロや将棋などは頭を使う遊びなので、特に子供のうちに親しんでおくことは非常に脳の発達にとっていいだろう。だから本来子供が楽しんでいればそれでいいはずなのだが、ついつい口を出してしまう。「そこは打ったらダメだろう」「もっと先を読めよ」などと言いたくなる。おそらく今の時点で、私の娘はが子供同士でオセロをするなら、かなり強い方だと思う。しかしそれもどうだろう。今ならネットでオセロ必勝法を調べるのも簡単だ。ただそれを娘に教え、オセロが強くなったとして、本当に娘のためになるのかは甚だあやしい。これでは考える力はつかないかもしれない。理想は自分で考えて攻略法を見つけることだ。むしろ考える過程のほうが重要だろう。これは子供の話だけでなく、大人にとっても同じだ。今やなんでもネットですぐ調べることができる。考える必要もない。そこにはやはり弊害もあると思われる。自分の頭で考えるという、ごく当たり前のように思えることを、現代の大人たちは拒否していると言えるかもしれない。確かにネットですぐに答えを見つけられるということは、大幅に時間が短縮出来、非常に効率的だ。オセロでいえば、先に必勝法を学んで強くなる方が良いのか、自分でいろいろ考えたけれども、結局攻略法が見つけられず一生弱いままでいる方が良いのかと考えれば、おそらく前者のほうが賢いだろう。ただそんな単純なことでもないような気もする。一見無駄に思えるようなことでも、子供たちにとっては重要なこともあるかもしれない。親としては何かと口出したくなるが、ぐっとガマンすることも必要だ。たぶん勉強についても同じことが言えると思う。目先のテストの点数を気にして、あれこれ言いたくなるだろうが、もっと大きな視点で考える必要がありそうだ。とはいえ、これが最も難しい。私の人生、目先にとらわれてばかりだ。細かいことを気にするより、ドンと構えている親の姿勢のほうが子供に良い影響を与えるような気がする。オセロも奥が深いゲームではあるけれども、たかがゲーム。みんなで楽しい時間を過ごせることがなによりだ。

3月26日 手紙を書く

兄から私の娘へと小学校入学祝いが届いた。すぐに電話でお礼を言ったのだが、やはり手紙を出したほうがいいだろう、ということになった。普段そういったことは全て妻任せにしているのだが、今回は私の実兄ということで私が書くことにした。実は私はほとんど手紙など書いたことがなく、特に送り先が兄ということで何だか気恥ずかしい。しかしこの年になって手紙の一つくらい書けなくては、という気持ちもあり、挑戦してみることにした。かくして「手紙の書き方」という実用本やネットを参考に、継ぎはぎしたようなお粗末な代物ができあがった。あまりにもぎこちないので、間にほんの少しエピソードめいたものを挟み、なんとか体裁をつけた。おそらく他人から見たら酷い出来栄えだろう。だが不思議なもので大きな達成感があるのだ。おそろしく些細なことで喜んでいる自分が惨めであるような気もするが、やはりなんだか誇らしいような気分だ。今まで出来なかったことが出来たことによるものだろうか。通常手紙というものは受け取った人が嬉しいものだろう。しかし手紙を出すほうも、ちょっぴり幸せな気分になれるのだということを初めて知った。兄がこの手紙を受け取ったらどう思うだろうと想像してみた。たぶん「やはりこいつはバカだ」と思うだろう。「よくこんな手紙を出せたものだ」と奥さんと笑うに違いない。それは自分でもわかっているのだが、少し浮ついてしまう自分がいる。手紙を書くというのもいいものだ。そしてそう思うようになった自分が不思議だ。今度は父に書いてみよう。驚くだろうな。

3月25日 挨拶をしない人、電車の中で化粧をする人と、それを非難する人

私の職場に挨拶をしない人がいる。こちらから声を掛けても無視される。私としては当然気分が悪い。ただこの人は挨拶をしないということは、すでにわかっていることで、気にしないように努めているのだが、なかなかそれが出来ない。過度に意識してしまうのだ。「この人はなぜ挨拶をしないのだろうか?私のことが嫌いなのだろうか?私も無視しようか?いや、相手がどうあろうと、自分は挨拶をするべきだ」などと色々なことを考えてしまう。私としては、心が乱されてしまうのが嫌なのだ。しかも非があるのは相手のはずなのに、(こちらに非がある可能性も、もちろんある)相手は全く平然としているのが、さらに輪をかけて腹立たしい。またそういった(おそらく)些細な事に、心を惑わされる自分に対してもイライラしてしまうのだ。

そのように挨拶をしない人にどう対処すべきか悩んでいる私だが、ふと「電車の中で化粧をする女性の是非についての議論」というものが思い浮かんだ。よく新聞の投稿欄でも見られるものだが、基本的には「公共の場で化粧をすることはマナー違反だ。はしたないから止めるべきだ」というものと、「別に迷惑かけているわけではないのだから、かまわないだろう」という二つの意見が見られる。私は正直に言って、電車の中で化粧をする女性を見ても、全く不快に思うことはなく、この議論自体はどうでもいいのだが、「電車の中で化粧をする女性」を非難する人たちと、先ほど述べた「挨拶をしない人に腹を立てる自分」が重なり合うように感じる。つまり、考えるべき問題はマナー違反を犯す相手側にあるのではなく、むしろそれを非難するこちら側にあると思えるのだ。これらに共通するのは「自分が他人の行為によって心を乱されている」ということで、自分とは異なった価値観を持った人が許せない、と言い換えることが出来るのではないだろうか。

確かにこの二つの事例において、相手側に非はあるだろう。公共の場においては一定のルールが存在し、それを守られるべきだ。例えば、親から子へ、学校の先生が生徒に道徳教育の観点から指摘することに対しては意義はない。しかし、それがすべての状況に適用できるかは疑問だ。相手が自分と同じ道徳観、あるいは価値観を持つべきだという前提がなければそれは成り立たない。そのように考えると、また違った景色が見えてくる。「挨拶をしない人」はもしかすると、その人ならではの事情があるのかもしれない。コミュニケーションに問題を抱えている人もいるだろう。仕事の効率化のために挨拶をしないことを推奨している会社もあると聞く。電車の中で化粧をすることも、時間を有効に活用しているともいえる。その人にとっては非難されるリスクはあるだろうが、それを踏まえた上でならば、もはやその選択に口出しすることは出来ないだろう。現代は多様化の時代だと言われる。異なった文化で生まれ育った外国人の方々、子供、若者、高齢者、障害者など様々な人々で社会は構成されている。それを一つの価値観で一括りにするのはもはや限界だろう。自分の価値観を相手に押し付けるのではなく、自分と他人とは違うものだとして、距離を置くことも必要なのではないか。「自分とは異なった他人の価値観を認めない」ということは、「他人が自分の価値観を認めないことを認める」といとにほかならない。これは良し悪しの問題ではなく、現代を生き抜く知恵ともいえるのではないか。

「他人の価値観を認める」というと、たいそう難しいことのように思えるが、一言でいえば「他人は自分の思い通りにはいかない」ということを知ることだろう。諦めればいいのかもしれない。そう考えると少し気が楽になった。相手がどうであれ、自分は思うようにすればいい。私はたとえ相手の返事がなくとも挨拶をすることにしよう。

 

 

 

 

3月24日 忖度する

「忖度(そんたく)」という言葉を最近よく耳にするようになった。私としてはここ数年のうちによく使われるようになったという印象だが、以前から使われていた言葉なのかは知らない。

忖度とは、「他人の気持ちをおしはかる」という意味だそうだ。

最近取りざたされている「森友学園」に関する報道において、よく使われているようで、外国人記者は翻訳するのに苦労しているそうだ。日本人でも聞きなれない言葉であるが、彼らが「忖度」を訳すと、「reading between the line」(行間を読み取る)だそうだ。実に上手い翻訳だ。 「他人の気持ちをおしはかる」=「行間を読み取る」は成り立つだろう。

「忖度」というのは、つまり「空気を読む」ということだ。私のイメージではこれは日本人の特性を表す表現で、論理的ではないという印象を与える。外国人記者たちが翻訳に苦労するのも理解できる。特に近年、ビジネスの場において「空気を読め」などと発言することは、当人には負のイメージを与えるだろう。ただビジネスにおいて、あるいは社会生活一般において「空気を読む」ことがいまだ必要であることも、またまぎれもない事実だ。「空気を読む」ということは、言い換えれば「先を読むこと」だろう。人より一歩先に手を打たないことには、生き残れない。つまり必要なことは使い分けることだろう。コミュニケーションにおいて、相手の言葉の裏に何が隠されているのか、相手が何を求めているのか、を知るためには「忖度」が必要だ。他方、自分が相手に何かを伝えようとするときには、徹底して「忖度しない」ことがことが必要だ。相手が「空気を読んでくれるだろう」と期待することによって、こちらの説明が曖昧になり、意図が伝わりにくくなるおそれがあるためだ。

しかしこの「忖度」という言葉が、最近よく使われるというのは若干違和感がある。時代に逆行しているような気がするのだ。グローバル化が進み、世界中の人々と関わり合わなければならない現代に、あまりにも日本的な「空気を読め」が通用するのか、非常に疑問だ。私はこの「忖度」という言葉が使われる背景に、現代の息苦しさ、本音を言わない社会が反映されているのではないかと思うのだ。思っていても口には出来ない、そういったことが近年増えている気がする。TVを見ていても、芸能人やコメンテーターが本音を言っていないのではと感じることは多い。それは「表現の自由」という重大な問題でもある。

とはいえ、先ほども述べたが、一概に「忖度」がいけないというものでもない。人間は言葉にされていない事柄からも何かを感じることができる。声に出来ない苦しみを持つ人もいるだろう。目に見えないものからも喜びを感じることがあるかもしれない。おそらく、「論理的な言葉」と「空気をよむ」、その間を「忖度」(reading between the line)することが必要なのではないだろうか。

3月23日 けん玉

娘の保育園では、子供たちは皆「けん玉」の練習をしていて、私がお迎えに行くと、たくさんの子供たちが私にも技を見せてくれる。それがものすごく上手なのだ。(娘はあまり上手ではないが)「もし亀」という技があって、(♪もしもし、かめよ、かめさんよ~)と歌いながら、二つの皿に交互に、けん玉をトントントンとリズムよくのせるのだが、そのスピードの速さに驚かされる。素直にすごいと思う反面、子供に出来るのだからこれくらい私にも出来るだろう、と嫉妬じみた感情が芽生え、私も娘のけん玉を借りてやってみた。しかし、これが難しい。一回玉を皿にのせることもなかなか出来ない。娘からは、持ち方がおかしいだの、もっと膝を使えだの、いろいろ指導がくる。「お前も出来てないじゃないか」とは言わないでおいた。思うようには出来ないのだが、結構やりだすと夢中になってしまう。以前テレビで「けん玉は脳によく、集中力が高まる」と言っていたのを見たことがある。集中力、私が最も欠けているものだ。一日少しずつでも練習すれば上達するだろうか。趣味けん玉。悪くない響きだ。上手くなればいつか披露できて、「おじさん凄い上手!」などとチヤホヤされる日が来るかもしれない。子供たちのようにすぐに上手くは出来そうにないが、継続することには意味はあるだろう。たとえそれが「亀の歩み」のように遅くとも。

3月22日 女子の文章力

妻は以前から日記をつけているのだが、その分量の多さに驚かされる。毎日細かい字で大学ノートの半ページほどは、びっしり埋まっている。(中身は読ませてもらえない)妻曰く、「その日に起こった出来事をただ書いているだけ」で、「女子ならこれくらい当たり前」らしい。そういえば中高生の頃、クラスの女子たちは何か手紙らしきものを頻繁に交換していたのを思い出した。昔は交換日記なるものもあったが、それももっぱら、女の子らがしていたものだ。男同士での手紙や日記の交換などあり得ないし、勉強以外で文章を書くことなどなかった。大人になるまでに書いてきた文章の量は圧倒的に女子のほうが多いだろう。そう考えると、世間一般男性よりも女性のほうが文章能力が相当高い傾向があるのではないか?という想像ができる。以前携帯小説というのが流行ったそうで(読んだことはない)、素人でも気軽に投稿出来て、面白いものは書籍化された、というような話を聞くが(今もあるのだろう)、私からすれば、はたして小説なんてものが気軽に書けるのだろうかと疑問に思う。たとえ中身がつまらなくて、文章がへたくそだとしても、一応物語としての形にすることは簡単なことではないと思うのだ。私の想像に過ぎないが、おそらく携帯小説を書く人は女性が多く、子供時代から手紙や日記をたくさん書いてきた人なのではないか。文章を書くことが好きで、相当慣れているからこそ、小説を書こうという気になるのだろう。一般に女性のほうが男性よりもおしゃべり好きで、コミュニケーション能力が高いと言われるが、それも文章力と関係しているのだろうか?ともかく文章を書くことは、思考力を高めるのに有用だということには間違いないだろう。すると、私の妻ももしかすると底知れぬ知性を秘めているのだろうか?そうは見えないが。もう少し中高生の頃のことを詳しく聞いてみた。「手紙ばかり書いていて、全く勉強しなかった」とのこと。納得。