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雑記です。日常のこと、読書、子育て、考えたこと。

4月13日 知人に挨拶に

娘の入学式の帰りに以前お世話になった方の家に立ち寄った。平日のお昼時で忙しい時間だったので、挨拶だけのつもりだったのだが、「あがってお茶でも飲んでいきなさい」と、とても熱心に勧められ、ついついお邪魔して長居をしてしまった。とても親切でお話好きの方で「ゆっくりしていきなさい」といってくださるのだが、どう考えても迷惑だった。相手の時間を取らせて申し訳ないし、こちらもゆっくりもしていられなかったのだが、切り上げるタイミングが難しかった。もっとスマートにさっと挨拶をして、「どうも!」と、お暇するべきだったのだが失敗してしまった。妻と一緒だったのだが、二人の息も合わなかったのも原因だ。大人の社交は難しい。前もって方針を決めてかからないと相手に迷惑をかけてしまう。

4月11日 学童保育のお迎え会

昨日娘の小学校入学式の後、学童保育の「新入生お迎えの会」があり参加した。説明の後に上級生による歓迎の言葉や普段している色々な遊びを披露してくれた。けん玉、竹馬、ベーゴマ、縄跳び、一輪車などなどを披露してくれたのだが、皆上手で驚いた。そしてその子供たちの表情がとても生き生きしていたのが印象的だった。学童保育というと私が幼い頃、今から30年以上前の記憶では、どこか寂しそうな感じがしていた。皆親が待つ家へ帰る中、その親が働きに出ていて学校に残らなければならない。当時は学童に行っている子は少なかったというのもある。しかし今になっておそらくそれは思い違いだったのだろうと思う。子供というのはどんな環境でも遊ぶことが出来るのだ。ほっておいても勝手に遊びを発見発明するものだし、学童保育には色々な遊びを教えてくれる先生方もいる。今日「新入生お迎えの会」を見て、学童保育というのは子供にとって楽園のようなものではないかと感じた。

我が家は共働きのため、やむなく学童保育のお世話にならなければならないが、むしろ子供にとっては最高の環境ともいえる。たくさんの遊びがあり、学年や学校の違う子供たちが一緒に過ごすことは、必ず子供にとってはプラスだろう。このような環境に恵まれていることには感謝しなければいけないだろう。また親としてはそのような様々な方々に支えられて子育てできていることに甘えてばかりもいられない。子供は学校や学童で先生方や友達から多くのことを学んでくれるだろうが、親が子にすべきこと、できることを常に考えていかなければならない。それはおそらく子供の目線からでは得られない価値観を示すことだろうか。そのためには私自身が、色々な問題に向き合い、真剣に考え、正しく生きようとすることだろう。それは子供のためでもあり、私自身のためでもある。

 

4月10日 入学式

今日は娘の小学校入学式だった。親子3人で学校へ向かう途中、他の新入生の子は皆ランドセルを背負っている。入学式にランドセルはいらないだろ、持ち物欄にもなかったし、と思いながらも、ほとんどの子が背負っているので不安になった。結局いらなかったのだが、もしかするとこの地域の慣習なのかもしれない。写真撮影用だろうか?

小学校の入学式ともなるとさすがに厳かな雰囲気だ。子供たちも緊張していたが親の私たちも気を引き締めないといけないと感じた。国歌、校歌斉唱、来賓挨拶と続く入学式に娘も保育園との違いを肌で感じていただろう。2年生による、1年生を迎える言葉と歓迎のピアニカ演奏があったのだが、とてもはっきりと大きな声の言葉や上手な演奏に驚いた。娘も1年後にはあんなに成長しているのだろうか。

入学式が終ると教室に移動した。若い女性の元気で感じのいい先生だった。できるだけご迷惑を掛けないようにしないと。教室にはたくさんの紙で作られたリングやお花が飾りつけがしてある。先生方が作ったのだろうか?在校生たちも手伝ったのだろうか?どちらにしても相当な手間がかかっていて、子供たちを迎えてくれる先生方や上級生のご苦労やお気持ちに感謝したい。

親としては娘が小学生になって心配ばかりだ。きちんと挨拶や返事が出来るだろうか?友達と仲良く出来るだろうか?勉強についていけるだろうか?しかしやはり一番心配なのは交通事故だ。正直無事に帰ってくれさえすればいいい。心配は尽きることがないが、おそらく上手くやってくれるだろうとも考えている。保育園で先生や友達からたくさんのことを学んできた。家でも毎日少しづつ勉強してきた。きっと大丈夫。時にはつらいこともあるかもしれない。でもそれ以上に多くの楽しいことが待っている。

みーちゃん、小学校入学おめでとう。

4月8日 学童保育に迎えに行った。

4月から小学校に入学する娘は、10日の入学式に先駆けて学童保育に通っている。今日初めて私が迎えに行ったのだが、想像以上にしっかりした施設と優しそうな先生方ばかりで安心した。娘によると先生や上級生が色々な遊びを教えてくれたり、映画を観ることもあるそうだ。さらにはおやつの時間まであるようで、楽しくて仕方ないようだ。同じ保育園だった友達が少ないこともあり、当初は馴染めるのか心配していたが、すでに友達ができたと報告してくれた。子供というのは私たちが思っているよりも適応力があり、心配せずとも集団の中でも上手くやっていけるようだ。むしろ大人になるにしたがって、それが困難になっていくのだから不思議なものだ。私などはすでに、友達というものが、どのようにすればできるのか皆目わからない。それにしても、子供たちは親の力だけで育つものではないとつくづく思う。保育園、学校、学童保育、地域、祖父祖母など多くの人たちに助けていただいて育っていく。本当に感謝しなければいけない。

4月7日 「ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」を観た。

映画「ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」を観た。娘と二人で行ったのだが、映画館で映画を観るのは7、8年ぶりだ。子供が生まれてからは映画どころではなかったが、こうして一緒に映画に行けるようになって、娘も大きくなったものだとあらためて実感している。娘は初めての映画館で興奮気味で、私も久しぶりで前から楽しみにしていた。朝一番の9時からの上映だったので、早めに着くとまだ人はまばら。ポップコーンとドリンクの値段の高さに驚きながらも、まあせっかくだからと買っておいた。両方ともSサイズを頼んだのだが、たっぷり入っている。ポップコーンのLを食べきったら胃がおかしくなりそうだ。平日の午前中ということもあって、お客さんは少なめだが、子供たちは皆嬉しそうだ。上演前の予告やCM(これもたっぷりあった)が終るといよいよ本編が始まった。さすが「ドラえもん」、最初から最後まで息もつかせぬスリリングな展開であっという間だった。結構長時間だったはずだが、娘も最後まで食い入るように観ていた。危機一髪というシーンが何度もあり、結局はドラえもんの道具でなんとかなるだろうとわかっていてもハラハラしてしまった。パオパオというマンモスか象のような動物が登場するのだが、これが可愛い。このパオパオのおもちゃをもらって娘は大喜びだった。

映画の内容は、南極の氷の下に眠る古代遺跡を舞台に、のび太ドラえもんたちが時を超えて冒険するというものだ。南極、古代、地球、宇宙と壮大なスケールで繰り広げられる物語に、私は隣の娘をよそに完全に釘付けになってしまった。普段は情けないのび太や、腹が立つだけのジャイアンスネ夫も映画では頼もしいのは昔から変わらない。

思えば私が初めて見た映画も確か「ドラえもん」だった。それから30年以上たってもこうして多くの子供達、そして大人をも魅了し続けているのは凄いことだ。そこには当然時代を超えて愛される普遍的なものがあるのだろうが、「ドラえもん」は時代に沿うようにアップデートもなされている。その一つが声優陣の交代だろう。特にドラえもんは以前の大山のぶ代さんのイメージが強すぎて当初は私も違和感があった。しかし子供達と一緒にテレビでドラえもんを観るうちに、その違和感も消え去って、キャラクターたちと声が完全に一致するようになった。そして今日映画を観て思ったことは、私が今日見たキャラクター達は、私がかつて子供の頃に見た彼らとは違うということだ。つまり私が感じたのは懐かしさではなく、新しさだということだ。もしかすると彼らも時を経て成長した、あるいは生まれ変わったと言えるのではないか。もちろん私も大人になって見方が変わったということもあるだろう。しかしそれを差し引いて映画の中の彼らは頼もしく勇敢で温かい。夢や希望、冒険、勇気。今となっては口にするのも恥ずかしくなってしまった言葉だが、「ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」を観た後の私の心には、染みわたるように馴染んでいった。

映画が終り、もらったパオパオを片手に嬉しそうに映画の感想を語る娘もなんだか少し頼もしく見えた。

映画館までバスに乗って来た。少し距離があるが帰りは歩いて帰ることにした。

「夢をかなえてドラえもん」を歌いながら、ふたりでゆっくり家へと向かった。

4月6日 整理整頓しなければ。

部屋が散らかっているので、片づけなければと思っているのだがなかなか出来ない。問題なのが、読みかけの本とメモだ。本は常に数冊を併読しているので、あちらこちらに置きっぱなしにしてしまう。そのため読みかけなのに、そのまま忘れてしまったり、読みたいときに見つからなかったりする。また手書きでよくメモを取るのだがそれも散乱している。整頓できていないと作業の効率は悪くなるしイライラする。「服装の乱れは心の乱れ」と学生時代先生によく言われたが、「部屋の乱れも心の乱れ」。大人になって片付けができないのは恥ずかしい。自分でルールを決めて整理整頓を心掛けよう。

4月5日 テレビのCM

先日録画しておいた、テレビでやっていた映画を見た。最近はあまりテレビも映画も見ないのだが、感動的な映画で久しぶりに泣いてしまった。しかし気になったのがCMのたびに流される近日公開の映画の予告である。録画してあるのを見ているので、CMごとにスキップするのだが、それでも繰り返し目に入ってくる。おそらく製作者はCMを飛ばされるのも織り込み済みで、飛ばされても視聴者の目に入るように工夫しているのだろう。別にかまわないのだが、あまりにもくどすぎるとうんざりしてくる。番組が始まる前に宣伝し、CMのたびに予告が流され、本編の間にも幾度となくテロップが流れる。感動的なエンディングのあとのエンドロールもカットされ、また映画の宣伝だ。いくら何でもこれはやり過ぎだろう。こちらとしても初めのうちは、ある程度興味を持つのだが度を超すと意地でも見てやるか、という気持ちになってくる。あまりにも露骨すぎて腹が立ってくるのだ。かつてサブミナル効果というものをよく耳にした。視聴者が気づかないレベルで、映像の中にその映像と関係のないカットを挿入し、視聴者の潜在意識に訴えるというものだ。それは今では禁止されているようだが、現在ではそんな手の込んだことをするまでもなく、ただひたすら繰り返し視聴者の目に入るように広告を打つのが主流のようだ。当然科学的な根拠があってそのような手法がとられているのだろうが、何か馬鹿にされているような気すらしてしまう。少なくとも私に対してはマイナスのCM効果がもたらされている。もう一つ言えば、番組とCMの関係がすり替わっているのが気にかかる。つまり番組の間にCMが挟み込んであるのではなく、まずCMありきであって、それにふさわしい番組をあとから作り上げているのだ。そうなると最も重要なのはCMであって、番組ではない。そうなると番組の信ぴょう性にも疑いを持ってしまう。テレビ離れが叫ばれるがこのCMの問題は小さくないと考える。安易なCMよりもいい番組を作り視聴率を上げたほうが結局は宣伝効果は大きくなると思うのだが。最近ほとんどテレビを見なくなってしまった。小手先の技術を使うよりも面白い番組を作っていただきたい。